氷解!! 魏志倭人伝の謎 - 南へ水行20日は「薩摩」

2017/02/14魏志倭人伝の謎が解けた!!

その2より続きます。
 
 

伊都国は佐賀平野だ!!

そこで一旦、伊都国、奴国、不弥国比定地の定説を念頭から消し去りましょう。
で、改めて地図を眺めます。
魏志倭人伝の記述によれば、
「末廬国(長崎県唐津市付近)から東南に500里」
だそうです。通説に従うと「1里=約80m」らしいので、「500里=約40km」です。
 
するとどこに辿り着くでしょうか。何と佐賀市、小城市付近なのです。
あの有名な吉野ヶ里遺跡のある、佐賀平野。・・・・
なんとなく、納得出来ると思いませんか!?

となると、奴国と不弥国も自ずと判ります。
 
魏志倭人伝の記述によると、伊都国の東南100里(約8km)に奴国、さらにその東100里(約8km)に不弥国があるそうです。
つまり、佐賀市東方から鳥栖、久留米、筑後、八女のどこか・・・・ではないでしょうか。おそらく筑後川流域でしょうね。
 
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投馬国は薩摩か!?

さて、伊都国は佐賀平野、奴国と不弥国もその周辺ということで、幸田的には合点がいきます。
「都市は水量豊富な大河の注ぐ、肥沃な平野において発展する」
という歴史の法則があります。
魏志倭人伝の記述から、伊都国は倭の重要拠点であることが読み取れます。比定地佐賀は現在でこそ、某お笑い芸人のネタになるような田舎(失礼)ですが、確かに歴史の法則に適っています。
 
で、伊都国を佐賀平野、つまり前出の地図の①と仮定すると、次の投馬国はどこでしょうか。
①の伊都国から「南へ水行20日」だそうです。
 
もうお判りですよね。途中雨を避け風待ちをしつつ、ダラダラと岸伝いに概ね南へ船を漕ぐと、辿り着く先は②の「薩摩」です。
鹿児島湾内の、鹿児島市か鹿屋市、さつま市付近のいずれかでしょう。
古墳分布を考慮すると、鹿屋市~肝付(きもつき)~志布志付近が有力です。或いはもっと手前の、長島~阿久根~川内~串木野付近の可能性もあるでしょう。
 
 
 

邪馬台国畿内説はトンデモ論

あらためて考えると、伊都国を福岡市西方と比定し、それが定説になってしまったのが悔やまれます。
 
最初から末廬国の「東南」に比定地を求めていたら、「南へ水行20日」はストレートに判明していたわけです。
福岡市西方だと比定されたからこそ、
「『南へ水行20日』はルートが見当たらない。こりゃ著者の陳寿は、『南』と『東』を勘違いしたんだろ・・・・」
などという奇怪な説が登場し、そこから「邪馬台国畿内説」というトンデモ論が登場したのです。そして様々な思惑が絡み、トンデモ論が勢いづいてきたのでしょう。
 
距離を正確に計測する器具の存在しない時代です。ですから距離や所要日数がアバウトだというのは頷けます。
しかし方角はどうでしょうか。太陽さえ出ていれば、方角は大体判ります。「南」を「東」と勘違いするなど、ほとんど有り得ません。
 
古来、薩摩大隅は日向国に含まれていました。
文化的にも日向国の影響を大きく受けているようです。例えば古墳石室のスタイルは、宮崎市から都城市を経由して薩摩大隅に伝わっています。
また神武天皇は東征前、薩摩大隅に寄り事前準備を行った足跡が残っています。
投馬国が薩摩付近であれば、なるほどと頷けます。
 
 
その4へ続きます。

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