吉野ヶ里遺跡の復元住居は「インチキ」だ!!

2021/11/08歴史ってすっげ~面白い

 
連日、近所の弥生遺跡と佐賀県吉野ヶ里遺跡を見学してきた。
まず、以下の画像。福岡市西区にある、野方遺跡の竪穴住居写真である。時期は弥生後期。つまり、概ね卑弥呼邪馬台国の時代の住居遺構だ。
 

日本における縄文、弥生の竪穴住居は、ほぼこういった床構造しか判明していない。上モノは全部朽ちて、残存していないためである。
この床構造だけを見れば、世界中の住居跡とほぼ同一なので、世界の例に倣い竪穴住居と呼んでいる(とはいえ現在、日本では「竪穴建物」と呼び改められつつあるそうだが)

ただし日本の場合、北海道など寒冷地を除けば、
「これを竪穴と呼んでイイの!?」
とツッコミたくなる程、竪穴が浅い。幸田がメジャーを延ばして測ってみたところ、30~40cmといったレベルだった。
 
一方、佐賀県の吉野ヶ里遺跡。――
こちらも前出の福岡市野方遺跡と同様、弥生後期にピークを迎えた(つまり卑弥呼邪馬台国と同時代の)遺跡である。
気候などといった環境条件も野方遺跡と同一。なので、あいにく吉野ヶ里遺跡内では発掘したままの住居跡は見かけなかったが、野方遺跡の住居遺構とほぼ同一と想像して良い。つまり竪穴は、30~40cmレベル。
……の筈なのだが、その吉野ヶ里遺跡の復元住居が、これ。
 

見ての通り、屋根下部に、本来有りもしない20cm程の土手(盛土)をめぐらし、嵩増ししているのである。しかも縄文弥生には存在しない、コンクリートで固めてある(苦笑)
野方遺跡の住居遺構、及び他の遺跡のそれとも見比べて欲しい。竪穴周囲に、土手など本来存在しないことが判るだろう。ひら地にいきなり30~40cmの竪穴(!?)を掘り、柱を建てて屋根を組んでいるに過ぎない。
 
つまり、発掘された通りの床構造に、学者先生方がイメージする上モノを作った場合、スコールや夕立一発で屋内に大量の水が入り込んでしまうのだ。
 
そんなことでは、当然ながら住居の役割を果たさない。
雨風をきちんと凌げて、なおかつ多少なりとも快適に安全に暮らせて、はじめて住居と言える。それこそが住居たる要件である。それさえ満たせないようであれば、縄文草創期や先土器時代のように洞穴か何かで暮らす方がマシだろう。
 
で、最低限、その住居としての要件を満たそうと思えば、写真のように住居周囲(つまり屋根下部)に土手をめぐらさなければならない。
そこに、実際の住居跡床構造との違い、矛盾が生じる。
ということは結局、学者先生方がイメージする上モノ――ひいては竪穴住居全体構造――は完全に誤っているのである。本来存在しないモノを勝手に追加して、どうにか住居としての条件を整えているだけなのだから。……
 
その、復元住居の内部を見れば、それが如何にインチキかよく判る。
以下は、復元住居内部の写真。
 


見ての通り、何と床を95cmも掘り下げてあった(笑)
前掲の、野方遺跡の写真等を再度見て欲しい。本来は平地にいきなり30~40cm程度、掘り下げているだけなのだ。それを95cmも掘り下げるということは、(野方遺跡と同じ)九州北部平野部の実情と、全く矛盾している。
で、さらにその周囲に、前掲の通り20cm程の土手が築かれている。なのでトータル100cm以上の高さを稼いだ上に、屋根を葺いている。九州北部平野部にあたる吉野ケ里地域本来の住居と、全く別モノと言わざるを得ないのだ。
 
朽ち果ててなにも残っていない、縄文弥生竪穴住居の上モノ。
吉野ケ里遺跡含め、全国各地の遺跡に見られる復元住居というものは、再度言うが全部学者先生方の勝手なイメージに過ぎない。
で、そのイメージ通りに上モノを作ろうとすると、結局これまで述べてきたように、竪穴を本来以上に掘り下げるだとか、周囲に土手をめぐらし雨対策をしなければならないのである。
 
真っ当な復元住居を作るならば、実際に出土している床構造に一切余計な細工をせず、出土したままの遺構を前提として、上モノを推測しなければならい。
しかし学者先生方は、それをやっていないのだ。床構造の遺構を丸っきり無視し、勝手な上モノをでっち上げているのである。
 
これでは、某近隣諸国のインチキ復元を笑えないではないか(^^;
日本の学者も、同じレベルの茶番を演じている……と言わざるを得ない。
 
それも某近隣諸国の場合、実際以上にハイレベルだったように見せたいがため、インチキをする。
ところが日本の古代史研究の現場では、逆に、実際より低レベルのインチキ復元を行い、
「昔はこんなにショボかったんですよ~」
という演出をする。
これは一体、どういう事なのか(怒)
 
園内で、詳しい方(学芸員さん?)をとっ捕まえ、その辺を質してみた。
するとその方、苦笑しつつ、
「完全に、根拠なくイメージしているわけではないんですよねえ……」
とのこと。
 
「竪穴の深さにしても、周辺の遺跡にはもっと深い住居遺構も見つかっていまして。……そういった諸々を勘案して、学者先生方複数で検討し合った上で設計しています」
……だそうだが、それでも結局インチキじゃん!!(苦笑)
竪穴のもっと深い遺構って、吉野ケ里よりもっと寒冷な、山間地の遺構らしいし。……
全くのデタラメ、と言い切れないギリギリのレベルで、インチキをやっているわけだ。
 
いや、温暖な九州平野部の吉野ケ里遺跡に、寒冷な山間部仕様を強引に持ち込んでいるのだから、やはり全くのインチキと判断すべきだろう。
 
で、あちこち園内を散策しつつ、最後にこんなシーンに出くわした。
今まさに、復元遺跡を建築しているところ。
 


見ての通り、建物四方に細い柱を等間隔に立て、壁構造を構築した上で屋根を葺いているのである。
再度、前掲の野方遺跡の床構造写真を見て欲しい。弥生後期の竪穴住居は、そんな作り方をしていないのが一目瞭然である。四方に細い等間隔の柱穴なぞ、存在しない。
 
というわけで、幸田はここでハッキリと申し上げたい。
全国の遺跡にみられる竪穴住居復元イメージは、ほぼ丸々、インチキである。
おそらく、根本的に間違っている。完全に誤っている。
 
拙著でも指摘しているが、富山県桜町遺跡(縄文中期)や石川県真脇遺跡(縄文晩期)において、加工木材が発見されている。ほぞ、ほぞ穴があり、彫刻まで施されているらしい。
また、ねずさんこと小名木義行氏の動画によれば、大分県の遺跡では縄文前期の角材が出土しているのだとか。しかもやはり、ほぞ及びほぞ穴があるという。
 
要するに太古の日本には、高度な木材加工技術及び建築技術があったのだ。復元住居にみられるような、あんなショボいモノしか作れなかった……というわけではない。
 
不思議に思うのは、木材の加工を行うための石器といえば、石斧くらいしか見つかっていない点である。
そのわずかに見つかっている木材加工石器――石斧――で、丸太を角材として加工し、ほぞやほぞ穴を加工出来たのか。彫刻出来たのか。
いやそれ以前に、そもそも青森県三内丸山遺跡などでは直径1mの柱穴が見つかっているが、1mもの丸太を石斧だけで切ったのか。……
 
ねずさんは、
「当時、既に鉄器が存在したのだろう」
と動画「むすび大学」で述べているが、なるほどそう考えるべきかもしれない。
鉄器が存在したからこそ、木材加工用の石器といえば石斧くらいしか見つかっていないのだ。鉄器もあったが全部腐ちて残存していないから、結果として石斧しか出土しておらず、どうやって高度な木材加工が為されたのか不明なだけなのだ。
 
換言すると、 縄文前期の時点で既に、高度な木造建築技術が存在し、かつそれを実現するための木材加工技術があった……と前述の考古学的成果から判明しているのである。
にもかかわらず、あんな稚拙な復元住居をイメージするというのは、完全にインチキだと言わざるを得ないだろう。
 
歴史学者や考古学者のウソにダマされてはいけない。