歴史学者共、ちゃんと仕事しろ!! ― 後編

2023/07/17歴史ってすっげ~面白い

中編より続きます。

先日、九州国立博物館を訪問した事に関し、盛大に苦言を呈した
それとも関係する話。すなわち、
「わざわざ博物館や資料館に足を運んだ人に対し、ちゃんとそのニーズを満たす工夫をすべきではないか」
と。
 
今どき、展示物に関する詳細な説明など、ネット上に腐る程ある。
写真だって沢山、アップされている。
下手に現地において、暗い室内でショーケース越しに素人が写した写真なんぞより、余程きれいに撮られた写真がネット上に氾濫している。
 
そんな時代に、わざわざ博物館資料館に足を運ぶんだから、そういった利用者達はそれなりの成果を求めてるわけ。
ところが博物館資料館側は、まさに旧態依然で、利用者達のニーズに全く対応出来てないんだよ(怒)

歴史学者共。もっと真面目に仕事しろ!!
あんたら、我々一般市民の税金でおまんま食ってるんだろ!? ちゃんと責任を果たせ!!
 
というわけで名護屋城博物館。――
ひとつ、思いがけない成果があった。すなわち竹崎季長が自身の手柄を鎌倉幕府にアピールしたという、『蒙古襲来絵詞』の現物を見ることが出来た。
 
だけどさあ……。
折角なんだから、ウワサの、絵巻左側をちゃんと見せろよ(笑)
 
教科書だとか写真集に掲載されている『蒙古襲来絵詞』って、実は馬上の竹崎季長しか描かれていないんだよね。
でも、実はその左側に、「逃げ惑う元人や高麗人」が描かれているわけ。
そりゃそうだよね。竹崎季長の活躍を描かせたんだから、そこまで描かなきゃアピールにならないじゃん。
 
つまり学者先生方は、「逃げ惑う元人や高麗人」を見せたくないわけよ、多分。だから隠す。
でも名護屋城博物館には折角原物があるんだから、そこを敢えて見せてあげようよ(笑)
そうしたら、我々のようにわざわざ足を運んだ人間は、大いに満足するわけじゃん。来て良かった、と。……
 
それとさ、学芸員も随分頑張って勉強しているのは判るんだけど。でももっと勉強した人間を配置しろよ、と言いたい。
こっちがちょっとツッコんだ質問しただけで、もう答えられないとか、話にならんわ(怒)
しょぼい掲示しかしてない癖に、掲示以上の情報を提供出来ないとか。
勉強に来た小学生集団をダマくらかす以外の仕事が出来ない。なんじゃそりゃ。
 
そうそう。
危うく書き忘れるところだったけれど、朝鮮通信使に関する記述も酷かった。
徳川時代に関しては、これもまた学者による隠蔽と捏造ね。正しくは“聘礼使”または“来聘使”という。それを“通信史”と呼称する時点で、インチキなんですわ。
 
どういうことかと言うと、李氏朝鮮というのは明国や清国、及び日本の二重属国だったの。
だから属国として、日本に対しても礼を尽くす必要があった。
で、徳川時代は将軍が代替わりする度に、相応の貢物を持って将軍に挨拶に来た。それが朝鮮聘礼使ね。
属国たる立場として、これは義務なわけ。
 
それを名護屋城博物館には、
「将軍の要請によって訪れた」
なんて書いてある。
まあ、酷いでしょ。完全なウソとまでは言えないが、ゼツミョーに本質をボカして解説してるわけ。ダメじゃん。
何度も言うが、ゴミだよゴミ。こんなもん、多額の税金を導入して建設、運営する価値ねーよ(怒)
 
というわけで、次に行ったのが菜畑遺跡。――
日本最古の、水田農耕後が見つかった遺跡として有名なところである。
 
こちらもまた、猛烈に腹が立った。まず、場所が判らない。
車載ナビ頼みで、随分と周辺を回ったが判らない。コンビニの店員さんにも教えてもらったが判らない。困ってしまってワンワンワワン(中略)
結局、“末盧館”とやらがそれだと判明。つまり国指定史跡・菜畑遺跡の敷地に末盧館という資料館を建てた。で、その末盧館への誘導標識を立てまくった……と。
バカか!?(怒)
 
我々他所者は、菜畑遺跡って名称で訪ねて行くんだぞ。
菜畑遺跡って名称から想像もつかないような資料館を作り、かつその末盧館名称でしか誘導標識を立てないなんて、何考えてんだよ(呆)
判るわけないじゃん。せめて、ちゃんと“菜畑遺跡”と併記しろよ。……
 
で、こちらは名護屋城博物館と違って、有料だった。
210円も徴収された。おまけに猛烈にショボかった。唐津市営とのことだが、委託企業に運営管理を任せているだけとのことで、学芸員も常駐していなかった。
 
んでもって相変わらず、
「稲作は弥生時代、大陸から半島経由で伝わった……と考えるのが妥当と思われる」
「半島人や大陸人に、コメや稲作技術を教わった。ありがたや~ありがたや~」
……の史観から一歩も前進していないのよ。
 
何が「妥当と思われる」だよ。
何十年、遅れてんだ!?
こちとら疲れ切っていたこともあって、ただただ脱力した。
 
あと、ね。……
ちょろっと古墳などから目につく出土品があっただけで、もう「王墓だ」って解釈するの、やめようよ。
思いっきり、バカじゃん。
 
最近の、吉野ヶ里遺跡の発掘にしても、そうだ。
石棺の蓋にちょろっと朱の塗料があっただけで、早速「王墓だ」とか。どう考えたってバカじゃん。
 
末盧館には現在、近隣の古墳で出土した品々が展示されている。で、どうやら素環頭大刀他、ちょろっと色々な物が出土しただけで王墓と判断しているわけ。
これってさ、日本の考古学者達が、
「日本の古代史なんてショボかった筈」
と考えてるのね。そういう思考的前提があるからこそ、何か目立つ出土があれば早速、「王墓発見っ!!」と騒ぐのよ。
 
例えば幸田の住む福岡のお隣、糸島市にある平原王墓。
あれなども、まさにその典型だろう。1辺10mもあるかどうかの、ショボい方墳が、王墓なわけあるかよ(笑)
 
幸田は改めて、ここで主張する。
「そもそも日本に王(king)は存在しない」
だって記紀にも、王(king)は存在しないじゃん。半島の王は例外として。
 
日本書紀には「王」という呼称が登場するけれど、あれは基本的に皇子皇女だ。つまり皇子皇女という言葉がまだ無かったから、便宜的に王と呼称したに過ぎない。
もっと古い時代にも、kingたる王は居なかった。居たら、後々も地方豪族に対し王という尊称を用いた筈だろう。
 
あくまで王の存在を主張する学者連中は、全員手弁当で宮崎の古墳を調査に行け!!
相当古いと思われる(下手すりゃ弥生墳丘墓!?)、前期型前方後円墳100m級がゴロゴロと多数、全くの未調査のまま長年放置されている。
それらを直に調査すれば、王とはなんぞやという認識が改まることだろう。ちょろっとショボい古墳を発掘し、少々副葬品が出ただけでたちまち「王墓だ」と騒ぐ風潮がいかにバカバカしいか。……
 
とまあ、そんな感じで、酷い訪問となった。
次回こそは、もっと実りある行脚を企画したいものである。
取り敢えず、神籠石めぐりでもやろうかなあ。
 
 
あとちょっとだけ、おまけとして続く予定。