歴史学者共、ちゃんと仕事しろ!! ― 前編

2023/07/08歴史ってすっげ~面白い

九州北部は今なお梅雨真っ只中だが、1日だけ快晴との予報。
早速レンタカーを借り、福岡市内から唐津市へ。
名護屋城址と菜畑遺跡へ行ってきた。
 
睡眠ほぼゼロで体調最悪。でもレンタカー予約を前回もキャンセルしているので、流石にドタキャン連発はまずかろうと思い、強行。
正直、運転怖かった(滝汗)
そういった事情で、折角名護屋城址に行ったのに、肝心の城跡の方は見ず。
 
だって、ムッチャ暑いもんね。広い城跡――天守付近を往復するだけでも2km位歩くことになるらしい――を巡ってたら、タヒんじゃうよ(^^;
あと、帰り際に芥屋の大門(糸島市)にも立ち寄ったけれど、遊覧船40分待ち(直前に出航したばかりだった)だそうで、泣く泣く壮大な柱状節理を見ずしてご帰宅。
あの有名な柱状節理、遊覧船に乗らないと見られないのね。知らんかった……orz

まあそういうわけで、折角レンタカーを借りガソリン代出費しながら、見たのは名護屋城博物館と菜畑遺跡の資料館(末盧館)のみ。
どちらもまあ、酷かった。何のためカネ出して体調不良の中行ったやら。……
以下、一応のレビュー。
 
まずは名護屋城博物館。――
 
館内の説明パネル、ほぼ全部ツッコミどころアリ。
あのさあ、名護屋城の博物館なんでしょ!? 秀吉が朝鮮出兵の際、拠点とした大規模城郭だよね。
なぜ、秀吉が海外派兵を決めたのか。
 
その理由を、ちゃんと書けよ!!(怒)
そこが一番、肝心なんじゃねーの?
 
バカ博物館に代わって幸田が簡単に解説すると、当時は大航海時代――と称する鬼畜ローマカトリック主導のスペイン、ポルトガルによる世界征服時代――の真っ只中だったわけ。
で、まさにこの日本列島も狙われていた。特に日本は両者縄張りの境界線上だったせいで、スペインにもポルトガルにも虎視眈々と狙われ(つまり早いもの勝ち)ていた。
 
それを察知した秀吉君。
さればこちらが機先を制する、とばかり明国や李氏朝鮮に使者を送ったわけ。三者で手を組み、フィリピンまで来てるスペイン勢力を駆逐するぞ、東アジアを防衛するぞ、と。……
で、あんぽんたんな(事の重大さが全然解っていない)明国からも李氏朝鮮からもハナであしらわれ、コケにされた。
 
だから「自衛」のため出兵したのよ。解かる?
「ついでに、あんぽんたん2カ国も潰してスペインを追い出す」
と。それこそが秀吉君の、海外派兵の動機だった。
これ、学校の教科書でも一切教えないよね。バカじゃね!?(呆) 歴史を学ぶ上で、すっげー大事なところじゃん。
 
「ボケ老人秀吉君が、私利私欲で隣国を食いに行った」
と、みんな勘違いしてるじゃん。ダメだろそれじゃ。
 
問題はそれだけじゃあ、ない。
そういう勉強を、戦後一切省いてしまったから、国家安全保障に関する議論なんかすっげー間抜けなんだよ。
周辺にならず者国家が複数ある時、島国たる日本ではどのような配慮や対策が必要なのか、ちゃんと歴史に学ばなきゃいかんのよ。
でもそれを全然やっていない。だから長年、バカ議論が蔓延る。政治家も何ら有効な手を打てない。
 
そして、近隣諸国からも色々と言われるわけ。でも日本人自身が歴史を知らない、貴重な歴史から国家安全保障の何たるかを学んでいないから、まともに我が国としての主張も出来ない。
ダメじゃん。……
 
とまあ、立派な博物館(佐賀県営らしい)がありながら、酷かった。
税金で作られ運営されてんだぞ。そんなバカ施設、要らんわ。
あ、幸田は佐賀県民じゃないけど(^^;
 
朝鮮出兵のみならず、昔からの大陸半島との付き合いについても、順に説明してあったんだけどね。まあ、全部酷い。
相変わらず、
「稲作は弥生時代、大陸から半島経由で伝わった」
とか。何十年前の話をいつまでやってんだよ!!(呆)
 
元寇の解説もあったんだけど、前述と同じ。
「なぜ倭寇なんて乱暴狼藉が始まったのか」
なんてのも、全然解説されていない。
そこもやっぱ大事じゃん。でも、それもまた学校の教科書で教えないよね。
 
これまた幸田が補足解説すると、まず“倭寇”って憶えてる? 室町時代辺りから、九州近辺の海の民が、半島や大陸にて海賊行為を繰り返した……ってヤツ。
あれね。元々は対馬辺りの人間が始めたらしい。
 
何故かというと、その前に元寇襲来ってのがあるよね。あの時対馬の人々が散々な目に遭った。
元寇ってのは、首謀者こそ“元”すなわちモンゴル人なんだけど、実働部隊の大半は半島人なのね。
 
で、そいつらの戦争犯罪が凄惨だった。対馬の人々は徹底的に虐待、凌辱された。
生き残った人々は手のひらに穴をあけ綱で数珠つなぎにされ、船の側面に吊り下げられた。そして日本軍の弓矢の盾にされたりね。
酷いもんでしょ!?
あの国の連中のデタラメぶりは、ホント全く理解出来ん。
 
だから、2度の元寇襲来を乗り切り、対馬の人々の生活が充分回復した後、彼らは半島に対してその復讐をしたわけよ。
それが倭寇の発端。
 
そりゃ褒められた事ではないけれど、心情的には理解出来るよね。
その辺、学校でも全く教わらないから、幸田は少年時代から首を傾げていた。日本人って昔から、そんな酷い行為の歴史って無かった筈なんだけど、と。
大人になり事情を知って、納得したわ。そこまで酷い仕打ちを受けたんだから、徹底的にやり返せって心情も無理はない。
 
結局そういう事情で対馬の人々が先鞭をつけた後、主に半島や大陸沿岸部の連中がその真似をして、海賊行為が氾濫したわけよ。
それを全部ひっくるめて“倭寇”と呼んだ。
そういう経緯を、戦後の歴史教育で一切解説してないわけ。だからほとんど日本人のせい、一方的に日本が悪い……って事になってる。
 
ダメじゃん。
名護屋城博物館も、それこそ近隣諸国をある程度意識した展示なんだから、尚更そういう点をきちんと解説すべきじゃん。
何やってんだよ。
日本の歴史学者達は、もっとちゃんと仕事しろよ!!(怒)
 
 
中編へと続く。

PVアクセスランキング にほんブログ村