「勤労の義務」をバッサリ斬る
時代背景が生んだ常識
この「勤労は義務なんだ」という常識は、戦後に作られました。
GHQがこさえて現行憲法に載せたと思いきや、社会党のMっ気の強い人が(笑)、大胆不敵にもそういう(命令の次に)強烈な言葉、認識を載せたようです。むしろGHQの方が「そこまで踏み込むか!?」驚いたそうで(^^;
そして、詳しい経緯は省きますが、戦後復興という極めて困難な時代背景の下、実にあっさりこの認識は「常識」としての市民権を獲得します。
法学の世界でさえ、「勤労の義務」については議論のテーマなのです。
ところがそんなものどこ吹く風で、教育が「勤労の義務」を子供に刷り込むんですよね。で、実に強固な常識になってしまいました。
考えようによっては、ウソくさい「平和主義」や名目だけの「人権」以上に深く、「勤労の義務」という極めていびつな常識が日本社会に浸透しました。
これはある種の危険性を孕んでいます。また、
「日本は世界でもっとも成功した社会主義国だ」
と言われる原因も、おそらくここにあるのだろうと幸田は考えます。
実は極めて危険な「勤労の義務」
というわけで、戦後復興成った今、「勤労の義務」という常識は捨て去るべきだと思うのです。
「強いられて働く」
「義務として働かされる」
というのは、実は本来奴隷だけの話。現代法治主義、民主主義社会ならなおのこと、あってはならないはずで、だからこそ法学の世界で議論のテーマとなるのです。
つまり日本国憲法のうたう「勤労の義務」は、為政者その他の支配階級に好き勝手利用されるというリスクを帯びています。単なる美徳ではなく、リスクと表裏一体。決して手放しに肯定できるものではありません。
結論に回帰します。「労働」は大原則として、誰かに強いられて為すものであってはいけません。命令、義務として誰かに強いられた瞬間、一個の独立した「人」としての尊厳を失います。
公共の福祉や社会保障などを維持するのに必要な、最小限の税金さえ負担すれば、以降、「労働」は個々人の自由意思であるべきなのです。
全ての日本人が、そこに早く気付く必要がある、と幸田は考えます。
自らの幸せのために働こう
あらためて考えてみると、今までは「食べていくため」という以外に、得体の知れない何か真っ黒な存在から「強いられて働いて」いたのではないでしょうか。
実体を求めるとすれば、それは「会社」であったり「社会」であったりするはずです。
それらに「義務」という名の、実はウソくさい鎖で繋がれ、日本人は馬車馬のように働かされていたわけです。
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