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再び竪穴住居について考える

幸田は考古学者や歴史学者の主張する説を、鵜呑みに出来ません。
最近はとうとう、1つ1つ疑ってかかる癖がついてしまいました。
 
以前、こんな記事を書きましたが、改めて竪穴住居について考えてみたいと思います。
ちなみに幸田と同じような事を考える方が、おられるようです。
 

【Yahoo!知恵袋】 2018/01/21
“竪穴式住居はでっち上げだと思います。”

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11185050606


 
 

簡単に雨が入り込むじゃん(^^;

まず、以下の写真をざっと眺めてみて下さい。
 

竪穴住居跡の写真 - Google画像検索

 
竪穴住居跡の周囲に、大きな溝が掘られているでしょうか。
あるいは周囲に盛土されているでしょうか。
 
そんなことはありませんよね。幸田が2016年に訪問した福岡市西区の野方遺跡も、住居の周囲に溝や盛土は施されていませんでした。
以前は鹿児島の上野原遺跡(復元住居多数アリ)へ頻繁に行っていましたが、そちらもやはり、溝や盛土はありませんでした。
 
縄文時代は現在の日本よりずっと温暖です。熱帯~亜熱帯気候で、頻繁にスコールが降っていたと思われます。
それから弥生時代は温帯気候です。つまり現在とさほど変わらず雨が降っていたと思われます。

当時の住居がもし本当に、日本各地に復元されているような竪穴住居だったとすれば、どう考えたって内部に雨がドバドバと浸入します。
そうですよね!?
 
だとすれば、その時点で既に、住居として成り立たないわけですよ。
縄文時代であれば、スコールが降り出して10分後には早くも、結構な量の水が溜まる筈です。
 
 
 

床構造が存在した筈

今日竪穴住居跡と呼ばれている物が、住居跡であったのはまあ間違いないでしょう。炉の跡も残っていますし。
しかし、おそらく確実に、しっかりした床構造を持っていたと幸田は推測します。
 
もう一度、前掲の写真をご覧下さい。住居の外周のみならず、中の方にも柱穴らしき物が多数ありますよね。
それこそが、床構造を支える柱だったのではないでしょうか。
 
もしこれが全部、屋根を支える柱だったとすれば、奇妙ですよね。
狭い居住スペースをさらに狭めるように、床から屋根まで柱が何本も貫いていたとすれば、邪魔で仕方がない筈です。
つまり中の方にも多数の柱穴があるのは、何らかの床構造が存在した証拠ではないか、と幸田は考えます。
 
 
 

上部はどうなっていたのか

初期の竪穴住居はともかく、縄文時代の途中から屋内に炉が登場します。
囲炉裏同様、調理や暖房として使用したのでしょうね。
では、その炎、煙、煤対策はどうだったのでしょうか。
 
各地の復元住居のような、ショボい構造物であれば、確実に火災リスクがあります。
また煙や煤が凄くて、下手すりゃ一酸化炭素中毒になるでしょうね。
どなたか是非、復元住居内で火を焚いてみて下さい(笑)
 
いや、そうでなくてもここは高温多湿の日本なんです。換気は極めて重要です。
そこが考慮されていないと、ジメジメして住めたものじゃないし、虫だって湧きます。
 
つまり、よく見かける復元住居よりも、屋根はずっと高かった筈だと思うのです。
それから何らかの、換気の工夫が為されていたと思うんです。壁があって、窓や煙突がある、とか。……
 
 
 

太古の日本の住居はもっと立派だった

結論。たとえ縄文時代といえども、日本の住居はもっと立派だったと幸田は推測します。各地の復元住居は、明らかに間違いだと思います。ショボ過ぎると思います。
もし、あんなショボい住居しか作れなかったのであれば、旧石器時代同様洞窟に住み続けた方が、まだマシでしょう。
 
また、復元住居のようなショボいレベルであれば、頻繁に壊れて建て直していた筈です。しかし各遺跡の集落の規模と住居跡の数を考えると、それもどうかと感じませんか?
 
「もっとしっかりした建物を、比較的長期間利用していたのではないか」
という推測が可能です。
 

家形埴輪 - Google画像検索

 
家形埴輪は古墳時代、つまり4世紀以降の物ですが、縄文時代には既に、これに近いイメージの住居が存在したのではないでしょうか。
当たり前の雨対策が施され、屋内に炉を設置していたとなれば、少なくともこの程度の建築物だったのではないか、というのが幸田の推測です。
 
 
 

原の辻遺跡(壱岐)

壱岐島の原の辻遺跡は、魏志倭人伝に記載されている「一大国」の国都跡ではないかと言われています。
 
以下の資料の46頁以降に、大変興味深い事が書かれています。
 

【国指定史跡 原の辻遺跡】
“保存整備基本計画報告書”(PDFファイル)

https://www.city.iki.nagasaki.jp/material/files/group/1/1103report.pdf
 
(以下、引用)
床大引材が完全な形で発掘されており、高床建築の床大引材としては日本最初で最古の出土例である。全長3.25m、最大径20cmの丸太材で、両端部にほぞがありほぞ穴の中央に小孔があるため、ほぞ、差し込栓留め形式の建築部材であったと考えられ、大型の礎石建物の可能性もある(礎石がみつかっていないことから断定はできない)。四角い穴を持つ建築部材と考えられる加工材(弥生時代中期~古墳時代前期)も出土している。

 
弥生時代中期とは、紀元前400年以降を指します。
つまりここ日本には、紀元前の時点で、ほぞを利用したり礎石建築物を作るスキルが存在したらしい、と判るのです。
 
だからこそ昔の大陸王朝は、日本人を「けものへん」ではなく「にんべん」で、「倭人」と呼んだわけですよ。
中華思想を有する彼らも、太古の日本人に一目置かざるを得なかったわけです。
 
なのに前掲の写真のような、復元住居ですか!?
何千年もの間、ずっと大差ない建築レベルのままだった、と言うのですか!?
学者先生方の考える復元住居と、幸田の推測。どちらがより真実に近いのでしょうか。