吉野ケ里遺跡に行ってきました
そして竪穴自体も、実際以上に掘り下げてあるように感じました。だからこそあの屋根の高さでも、炉があるのに火災を起こさないわけですよ。
つまり、そこもインチキだと思われます。
おそらく3世紀当時の住居は、もっと高度な構造物だったと幸田は推測します。
復元住居は要するに、ショボいレベルであったというイメージにとどめたいがために、辻褄合わせで実際と異なる浸水対策を施したり、実際の竪穴以上に掘り下げてみたり。……
現地で復元住居を直接目にして、一層そういう思いを強くしました。
そうそう。復元住居には「入り口」があります。
周囲に柱を立て、これぞ入り口とでも言うべきものを構築しているんです。
しかし実際に発掘された住居跡には、入り口らしき構造の見当たらないものが多いのです。その辺にも違和感を覚えました。
なぜ物見櫓が林立?
他にも、色々謎の建築物があり面白かったですね。
学者先生方は柱穴の跡を眺め、
「多分こんな建築物があったのだろう」
と想像し上モノを建てたのでしょうけれど、
「それは一体何に使ったのか(笑)」
と首を傾げるようなモノであったり。
物見櫓もナゾですよ。
学者先生方は、10本ばかしの太い柱穴跡を眺めつつ、
「これは大体この位の高さの、物見櫓だったのだろう」
と考えたのでしょう。しかし、あんな半端な高さの物見櫓が、狭いエリアに多数林立していたでしょうか。
あんな物見櫓から、一体何を見張ったのでしょうか。
幸田が思うに、大半は物見櫓ではなかったでしょうね。
何か別の構造物だったのだろうと考えます。1区画にあれだけ何棟もの物見櫓が必要だったとは思えません。
1区画あたり1つ2つは確かに物見櫓だったのでしょうけれど、それとてもっと、高くゴージャスなものだったと想像します。
隣接する集落や、或いは当時4km先だった有明海の海岸付近まで見渡せるような。……
その他、様々な事を考えさせられました。実に有意義でした。
ディスカッション
コメント一覧
こんにちは。私は古代史に関する本を書いている韓国人です。 この文に出ている城柵と関連した写真が本当に立派ですね。 私があの写真の中で一つ二つだけ使うことができますか。 いい本を出版できるように、資料写真の使用を許可してもらえませんか? お願いいたします。
文盛哉さん、お問い合わせありがとうございます。
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幸田先生、本当にありがとうございます よく分かりました その程度は問題ありません。 それでは許していただいた通りに写真を何枚か借りて行って大事に使わせていただきます。 後ほどまたお教え願いたいことがあれば、また貴サイトにお伺いさせていただきます。 いつもご健康とご健筆をお祈りいたします。文盛哉 拜上