氷解!! 魏志倭人伝の謎 - 邪馬台国比定地と「政治力学上の要件」

2017/05/09魏志倭人伝の謎が解けた!!

その5より続きます。
 
 

神武天皇は紀元前1世紀に宮崎を発ち、畿内へ向かった

神武東征の出発点、即ち神武天皇カムヤマトイワレヒコの本拠地は、日向国ということで間違いないと思います。
記紀にもハッキリとそう書かれていますし、宮崎には多数の神武伝承が残っています。また考古学的成果からも、太古の日向国が大きな軍事行動を起こせるだけの強大な国力を有していたことが明らかです。

それから神武東征の時期ですが、最近の研究では紀元前1世紀説が浮上しています。
拙著「新・日本通鑑 ①縄文・弥生篇」に詳述しましたので、そちらをお読み頂きたいと思います。
 
 
 

神武東征後の日向国は?

では、神武東征後の日向国はどうなったのでしょうか。
主力軍勢がごっそり抜けて、衰退の一途をたどったのでしょうか。
いえいえ。生目古墳群や西都原古墳群を見る限り、そんなことはなかったようです。
 
例えば西都原考古博物館を訪れると、西日本各地の土器が出土していると判明します。また畿内との繋がりが見えるのだとか。
つまり、単なる地方勢力というにとどまらず、権勢もしくは経済力にて西日本に大きな影響力を行使していたことが推測可能なのです。だからこそ他地方の土器が出土するわけです。
 
神武東征後も依然、強大な経済力や軍事力を有したのでしょう。
そして畿内にて諸勢力に揉まれ苦戦する初期天皇家を、「本家」としてバックアップし続けたことが考えられます。
その後畿内を平定し強大な力を付けた初期天皇家は、本家たる日向国に築造された有力者の古墳を模倣し、同じ形で2倍サイズの古墳を幾つか築造した・・・・ということではないでしょうか。
 
 
 

「倭(九州)勢力」と「日本(畿内)勢力」

学校の歴史教科書では全く触れられていませんが、太古の日本には「倭(九州)勢力」と「日本(畿内)勢力」という二大勢力が存在したようです。
旧唐書や新唐書にハッキリそう書かれています。同族ながら別勢力だ、と。・・・・
 
「倭=日本」ではないのです。大陸の歴代王朝が書いた倭人伝や倭国伝を読むと、倭とは九州地盤の連合国家であることが透けて見えます。
「倭人」と言えば日本人を指し、「倭国」と言えば九州中心の一大勢力を指している、と考えられるのです。
 
この倭勢力こそが畿内初期天皇家の本家であり、連合政権大和朝廷に長らく影響力を行使したのではないでしょうか。
 

  • 神武東征後も日向国は発展を続けた。それが倭勢力の盟主邪馬台国だった。
  • 倭勢力邪馬台国は、畿内勢力をバックアップし続けると同時に、九州統治の要であり続けた。
  • 初期天皇家は本家たる倭勢力邪馬台国の存在があったからこそ、後顧の憂いなく地盤固めに専念できた。また鉄製武器等の豊富な供給を得られた。

 
・・・・そう考えると、全てが自然に説明できると感じるのです。
 
 
 

邪馬台国比定地と「政治力学上の要件」

邪馬台国は大陸の魏王朝と対等外交を結びました。これは「親魏倭王」印綬の文言からも明らかです。
魏王朝と直接外交を結べる勢力を有していた、という点が極めて重要です。
 
当時、畿内勢力を別にして、「倭国王」を名乗れる勢力とは何か。そしてどこにあったのか。そういった政治的事情まで考慮すると、邪馬台国こそが倭(九州)勢力であり、かつ神武東征の出発地宮崎しかあり得ない、と幸田は考えるのです。
 
邪馬台国が宮崎であればこそ、卑弥呼は魏の皇帝に対し、こう主張出来るのです。
「本家はあっち(畿内)じゃない。こっち(宮崎)だ。こっちが正統な倭国王だ」
と。・・・・
 
畿内勢力の方も、邪馬台国の独自外交を或いは苦々しく思いつつも、事実上の本家として一目置く存在であったため何の手も打てない。邪馬台国に制裁を加えることができない。
これこそが実は、邪馬台国比定地としての最大要件ではないかと幸田は考えます。
 
幸田は邪馬台国をそのように分析します。
傾聴すべき仮説、本当に説得力のある仮説は多々あれど、考古学上の成果に加え政治力学の視点を加味すると、宮崎に注目せざるを得ないのです。
 
今回の魏志倭人伝記述の解読により、ますます確信を強めました。

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