雨が侵入する住居は住居と呼べない ー 復元されたインチキ竪穴住居

インチキ縄文歴史観を粉砕する

昨日は祝日だったので、運動を兼ねて自転車で板付遺跡を往復した。
一番の目的は、復元された竪穴住居を見ること。近場では板付遺跡にしか無いらしいので。
 
 
 

復元された竪穴住居はインチキ

なぜ、幸田は竪穴住居が気になっているのか。
過去にも書いたが、幸田は学者先生方がイメージする、縄文~弥生時代の竪穴住居について全く信用していない。
「あの形状であれば、ちょっと雨が降れば住居内にドカっと雨が侵入し水浸しになる。つまり住居として用を為さないではないか」
と考えるからである。
復元された竪穴住居は、実際に雨が侵入するのか……を確認したかった。

他にも疑問がある。
日本の竪穴住居跡は他国のそれと異なり、竪穴と呼ぶ事自体どうかと首を傾げたくなる程、穴が浅い。
なのに、例えば弥生時代に入ると、住居内に炉が設けられるのである。いわゆる古民家などに見られる、囲炉裏のようなものである。
 
しかし、前述の通り日本の竪穴住居は竪穴が浅いわけで、かつ屋根の形状を考えれば高さが確保出来ない。
であれば、炉の使用による火災発生リスクが高いのではないか。
 
以上の2点がここ数年気になっている。
 
 
 

細部にチープな捏造が施されいる

一昨年は、吉野ヶ里遺跡を訪問し、復元された竪穴住居を確認した。
で、呆れた。どうやらインチキが講じられている。
 
つまり、住居下部にぐるりと、高さ20~30cm程の土手が築かれていて、雨の侵入を防いでいるのである。
それはどうやらコンクリートで固められている。かつその外側に板が張り巡らされている。
 

※下部にコンクリート加工(吉野ヶ里遺跡の復元住居)
 

※下部に板張り(吉野ヶ里遺跡の復元住居)
 
実際に発掘された住居跡には、もちろんそんな痕跡は全くない。
 
おまけに竪穴も、実際より深めに掘り下げられているのではと感じた。
 

※入り口に階段を設置する程、竪穴が深い(吉野ヶ里遺跡の復元住居)
 
つまり、竪穴を深く掘り、かつ住居周囲に土手を作り、その上に屋根を張ることによって、床面(つまり炉がある)から屋根までの高さを稼いでいるのである。
 
それならば雨水も侵入しにくいし、炉を使用しても火災リスクは低いだろう。しかし実際に発掘された住居跡の形状とは全く異なるので、これはインチキと言わざるを得ない。
 
というわけで、では他の復元住居はどうなのか……を確認するのが、今回板付遺跡訪問の主目的である。
 
 
 

住居としての要件を満たしていない

結論から言えば、やはり雨水が住居内に侵入するらしい。
ほ~ら、やっぱそうだろ(笑)
 
板付遺跡。一部の復元住居は、吉野ヶ里遺跡同様、周囲がコンクリートで固められていた。
また、住居内部に入れないよう木製のドアが設置されていたが、雨の影響を強く受けているらしく、ドア下部が腐り穴があいていた。
スタッフにその件尋ねたところ、やはり雨の影響を受けるらしい。
 

※白飛びしているが、木製ドア手前左側の白い部分がコンクリート(板付遺跡の復元住居)
 
寝耳に水、ということわざさえ存在する。
ちょっと昼寝していたらドカドカとスコールが降り、あっと気が付けば住居内にザバ~っと水が入り込んで危うく溺れそうになる。――
そんなシロモノを、住居と呼べるだろうか。住居としての要件を満たしていると言えるだろうか。
もちろん、そんな筈はない。
 
しかし学者先生方がイメージし、日本各地に復元された縄文~弥生期の竪穴住居は、まさにそれである。
旧石器人は洞窟住居で氷河期を乗り切り、氷河期が終わると一気に諸技術を高め、住まいに関しては平地に竪穴住居を構えて暮らすようになった。
しかしそれは、雨水が簡単に侵入するシロモノなのである。だとすれば、まだ洞窟住居の方がマシではないか。
 
 
 

15,000年の「時の長さ」を無視

加えて学者先生方によれば、縄文~弥生期の15,000年間、竪穴住居はほとんど進歩していないらしい。
機能面では、せいぜい炉が設けられるようになった程度。あとはサイズが広くなり円形から方形に変化した位だという。
 
これもまた、幸田に言わせれば非常に信じがたい。
住居として致命的な欠陥を有しつつ、なおかつ15,000年間もほとんど進歩がないなど、あり得るだろうか。
どう考えても無理がある、と感じる。
 
竪穴住居は学者先生方がイメージし、日本各地に復元されたあの・・形状とは、恐らく全く異なる筈である。
上モノ(屋根部分など)は全て朽ち果て、何も残っていない。発掘調査で判明するのは住居の基礎部分だけである。
だがそこから学者先生方がイメージするモノと、昔の実物は随分違っただろうと幸田は考える。
 
雨が降っても大丈夫なように、床構造なんかも有ったのではないか。屋根ももっと高く、弥生時代には排煙の仕掛けなども有ったのではないか。
 
 
 

宮室、楼観、城柵が厳かに設けられ……

魏志倭人伝の時代。――
日本では弥生期終盤もしくは古墳時代早期にあたる。まさに吉野ヶ里遺跡に復元されている、竪穴住居の時代である。
著者陳寿による魏志倭人伝の記述は、基本的に倭人(日本人)を卑下していない。むしろ自国に次ぐ文化人であるかのように、随分とポジティブに描写されている。
「宮室、楼観、城柵が厳かに設けられ、人は礼節を知りモラルを守って生活している」
といった具合である。
 
その魏朝の使者達が、つまり中華思想に基づく尊大な連中が、吉野ヶ里遺跡にて復元されているようなショボい城柵、楼観を見て、
「厳かに設けられている」
とメモしただろうか。あんなショボい復元住居を見て、
「文化的だ」
という印象を抱くだろうか。……
 
 
 

意外な程、高度な技術が存在する

今回はついでに、板付遺跡近所の福岡市埋蔵文化センターまで足をのばし、専門の方に色々とお話をうかがった。
縄文、弥生に関する歴史は既に大筋固まっており、ここ30年程は新事実判明に伴う枝葉末節の更新にとどまっているらしい。
いやいや、それじゃダメだろう……と、思わざるを得ない。
 
ニニギは姉のイワナガを返品し、妹のノハナサクヤと契った。これは世界的なトレンドである石造建築を捨て、木造建築をチョイスしたという歴史を暗示しているのではないか……と幸田は考える。
 
日本神話の当該エピソードが、一体どの時代の出来事なのかは判らない。
だが確かに、太古の日本には巨石建築文化の痕跡らしきものがあり、しかしそれを捨て、かなり早い時点で木造建築に移行したように見える。
巨石建築は派手だし、長く壊れず残存している。ではそれらが木造建築と比べて、技術的に高度なのか。いや、一概にそうとは言えないだろう。木造は木造で、巧みな建築技術を要するのである。
 
それこそ竪穴住居だって、そういった高度な建築技術によって作られていたのではないか。
台風一発、大地震一発であっさり吹き飛ばされたりひしゃげたりしないよう、高度な建築技術を駆使して建てられていた、とは考えられないだろうか。
学者先生方は、チープなイメージの復元住居を建てつつ、こっそりコンクリート等を用いて本来の高度な建築技術の存在を覆い隠す。
 
 
 

学者の怠慢では!?

ちなみに一昨日は、やはり自転車で伊都国歴史博物館を往復し、大きな甕棺を間近に見た。その肉厚が1cm程しかない事に気づき、驚いた。
これほど大きなモノを肉厚1cm程で作り上げ、どうやって焼き上げたのか。焼き上げる前に粘土がひしゃげてしまわないものか。
 
その辺の疑問も同時に投げかけてみた。答えは、
「未だ不明」
だそうである。
 
この2点からも、縄文~弥生期の人々が、我々の想像以上に高度な技術を有していたことが推察可能である。であれば、根本的な歴史観そのものをごっそり見直すべきではないか。
弥生時代はおろか縄文時代でさえも、
「チープな技術、文化しか持たない原始的時代」
といった歴史観を再考すべきではないのか。
 
というわけで昨日は「なんちゃってマウンテンバイク」で福岡市内を30km走り、尻が痛くなった(苦笑) しかしそれ以上に、大きな収穫を感じた。
縄文時代観、弥生時代観は、今あらためて根本的に見直すべきである。

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