邪馬台国は宮崎にあった!!
学問の世界も、やはり声のデカいジャイアンが勝つ世界のようですね。
邪馬台国論争。現在は九州説より畿内説の方が強いのだとか。
畿内説だと古墳の時代がビミョーにズレています。卑弥呼の時代は3世紀。畿内の古墳はそれより後のものです。
そして畿内説最大の弱点は、魏志倭人伝の記述と方角がまるで異なること。
方角って、そう簡単に間違うものでしょうか。太陽さえ出ていれば簡単に判別がつきますよね。
それでも畿内説が有力とは、どういうことでしょう。・・・・
倭国は九州だと幸田は考えます。邪馬台国の候補地No.1は、実は宮崎平野だと思います。
「水行十日」の記述は、海とは限りません。博多湾から川を上り、概ね南に進めば、筑後川に合流し有明海付近に出ることができます。
そこから陸を南下し、途中どこかで九州山地を横切れば、確かに宮崎平野にたどり着くのです。魏志倭人伝の記述に矛盾しません。
そうそう。隋書倭国伝には「倭に阿蘇山有り」との記述があるそうです。
倭国が九州だからこそ、阿蘇山に触れているのではないでしょうか。畿内に向かうのであれば阿蘇山は素通りです。かすりもしないのにわざわざ記述する確率は低いと想像します。
やはり「東」ではなく「南」なのです。畿内ではなく九州なのです。
邪馬台国は古墳時代前期に該当します。
宮崎平野、実は前期中期の古墳だらけです。
宮崎市内のどこを掘っても、古墳時代の遺物が出土します。市内全域、古墳だらけです。相当強大な国、都市が存在したのは間違いありません。
130mを超える大きな、前期の前方後円墳も幾つか見つかっています。西都原古墳ではありませんよ。宮崎市内です。
畿内の主要な古墳のミニチュア版が、宮崎に揃っているそうです。製造されたのは宮崎の方が先です。それから地名も、畿内と同一のものがあちこちにあります。
そして驚くべきことに、古代宮崎には原始的な製鉄の技術まで存在したのだとか。
つまり、早くから鉄器を使用することによるアドバンテージで、宮崎平野に強大な国家が成立した。それがおそらく邪馬台国です。
九州の主要な国々を従え、繁栄した。
その後、騎馬による戦法が伝わる。鉄製の馬具や武具を自ら製造できるというアドバンテージを以って、神武東征。本拠地を畿内へ移す。
強大な大和王権誕生。宮崎平野の古墳を模倣、スケールアップし建造。また宮崎時代の地名をあちこちに付ける、と。
漢~隋の歴史書の記述とも矛盾しない。現物の裏付けもある。古事記の記述にもスムーズに繋がる。
素直に考えると、邪馬台国は宮崎ですよね。
いや断定はできませんが、百歩譲っても相当に有力な候補地だと幸田は考えます。学者先生方、少し宮崎にも目を向けて頂けませんか!?
ちなみにアマチュア研究家の方が、素晴らしい調査をなさっているそうです。
以下、歴史ファン必見のページです。
[邪馬台国と製鉄 - Shun Daichi]
http://www.shundaichi.com/37034393402148822269123923506937444.html
ディスカッション
コメント一覧
拝見いたしました。
畿内政権のおおもとは、宮崎に?!
なぜ畿内説が有力とされてるかというと、学会で畿内説が有力とされてるから。さらに言えば、学会のえらい人が畿内説と言ってるから。矛盾があっても指摘したらハブられるし学会を追放されかねない。
要はそういうこと。
たまに宮崎に遺跡はないからあり得ないと言う人がいるが、工事、開発などでほとんどの遺跡が破壊されてきた現実がある。そう考えると遺跡が発見されてなくてもおかしくはない。
甚兵衛さん、こんにちは。コメントありがとうございますm(_ _)m
我々一般人には信じがたいことですが、甚兵衛さんのおっしゃる通りの状況が存在するようですね。
「オゾン層破壊の原因はフロンガスだ」
というトンデモ論が定説化したケースなどを見ると、そう考えざるを得ないようです。
宮崎はかつて、市内全域に遺跡や古墳がありました。甚兵衛さんのおっしゃるように、大半は未調査のまま跡形もなく潰されています。
本文に写真を掲載している「生目古墳群」は保存されていますが、日本最古級の大型前方後円墳の可能性のある1号墳は、何十年も未調査のままです。
なぜだろう、と先日関係者の方に質問してみたところ、
「国指定史跡だから学術調査ができない」
だそうです(苦笑)
かくして宮崎の歴史は、謎のまま闇に葬られます。