伊都国歴史博物館に行ってきました - 前編

2019/02/01魏志倭人伝の謎が解けた!!

伊都国歴史博物館とやらがある、と知り、早速行ってきました。
 

【伊都国歴史博物館】
http://www.city.itoshima.lg.jp/map/020/05/s05.html

 
行ってみてびっくり。
「福岡県糸島市の三雲・井原遺跡周辺は、魏志倭人伝に記載のある『伊都国』王都であることが確定的となり、平成29年10月に国史跡の指定を受けた」
だそうです。
 
おいおいおい(^^;

 
 

方角も距離も全然合わない

魏志倭人伝の記述によると伊都国は、国内上陸地点末盧国から、東南500里(約40km)の位置にあるそうです。
 
国内上陸地点末盧国は、現在のところ佐賀県唐津湾付近だろう、と言われています。
糸島市って、唐津湾から見て「東南」ですか? 約40kmの距離ですか!?
方角も距離も、全然合わないですよね(苦笑)
 
 
 

末盧国との位置関係

「いや。上陸地点末廬国が、唐津湾付近ではないかもしれない」
という可能性もあります。
では逆に考えると、
「糸島市からみて北西約40kmの位置」
って、どこですか?
 
海中ですよね(笑)
弥生時代は気候が寒冷で現在より海面が低く、もっと海岸線が海側だったと仮定しても、無理があります。
つまり、上陸地点末盧国との位置関係的に、伊都国糸島市説は明らかに無理があるわけですよ(^^;
 
 
 

上陸地点は伊都国ではなく末盧国

当時の日本には牛も馬もいない、と魏志倭人伝に書かれています。
魏朝の使者御一行は牛車も馬車も使えず、大荷物を全て人力で携えて邪馬台国を目指したのです。
宿泊施設もなければ、気軽に食料を調達できるお店もない時代に、長期間の旅行をするわけです。荷物は膨大な量となる筈です。なので使者御一行は、おそらく数百人規模だったと想像します。
 
そんな御一行様が、あえて末盧国に上陸し、荷物を全て下ろした後に不便な陸路を40kmも歩き、糸島市に移動したでしょうか。
壱岐島からダイレクトに、舟で糸島市を目指した筈ですよね。
 
当時の海路事情を考慮しても、その方が合理的です。しかしまず、末盧国に上陸した。それから陸路、伊都国へと移動した。
それには明確な理由があった筈です。糸島市が伊都国だとすれば、そこが見えません。
 
 
 

改めて問う「伊都国糸島市説」

つまり伊都国糸島市説には、根拠が希薄なのです。
にもかかわらず、なぜ学者先生方の間で、伊都国糸島市説がコンセンサスを得ているのでしょうか。
これはつまり、
 

  • 隣の福岡市が「奴国」に比定されている。なので位置関係からして、糸島が「伊都国」だと思われる。
  • この地は古くから「怡土(いと)」という地名だった。
  • 糸島市には沢山の遺跡が見つかっており、かつ比較的しっかり調査されている。
  • 特に糸島市平原王墓からは、大陸との関係を示す副葬品が大量に出土している。伊都国の王墓に違いない。

 
という推測に基づくようです。
 
 
 

「奴国福岡市説」も実はアヤシい

しかし、どうでしょうか。
 
まず、ホントに福岡市が「奴国」なのでしょうか。
これもほぼ定説となっていますが、幸田は疑問を抱いています。
そもそも奴国を「なこく」と読むのでしょうか? まず、そこからしてアヤシいのです。読みが「なこく」でないとすれば、福岡市が奴国であった根拠も半減するわけです。
 
いや、確かに博多湾志賀島から「漢委奴国王」金印が出土していますが、それとて「奴国である」という根拠としては弱いと思います。
金印はどこか別の場所から、持ち込まれた可能性だってあります。また、
「確かに奴国王に与えられた金印である」
という根拠もありません。

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