伊都国歴史博物館に行ってきました - 前編

2019/02/01魏志倭人伝の謎が解けた!!

魏志倭人伝の時代から「いと」だったのか!?

それから旧地名が「怡土」だった、というのは極めてポジティブな要因ではありますが、かといって3世紀頃から既にそうだった、という証拠はありません。
 
また、伊都国が外交や交通、物流の拠点であった蓋然性は高いのですが、その割に規模は千戸レベルだったようです。
ところが糸島市周辺の平地面積や、発見されている遺跡の数から想像するに、
「千戸どころか、もっと大規模だったのではないか」
と幸田は想像します。
 
「1匹見かけたら、100匹いると思え(Gの法則)」
じゃありませんが(笑)、あれだけの遺跡が見つかっているならば、相当な人口を有していたのではないかと思えてならないのです。
 
 
 

意外に小さい「平原王墓」

さらには平原王墓。
幸田は博物館に行く前に、平原王墓に寄ってみました。これが意外にも小さいのです。
また博物館内には、王墓内部の原寸大模型が展示されていました。幸田は宮崎で大きな古墳ばかり見慣れているせいか、非常に小さいと感じました。
 
ホントに王墓なのでしょうか?
いや、そりゃまあ糸島市は大陸や半島と比較的近い位置にありますから、大陸や半島由来の副葬品が沢山出土したとしても不思議ではありません。
しかし、だからと言って王墓だと言えるのでしょうか。地方の有力者の墓、といったレベルなのではないでしょうか。実際に王墓が発見されたら、もっとゴージャスな副葬品が出てくるのではないでしょうか。
 
 
 

古代日本に諸「王」が存在したのか

そもそもホントに伊都「国」なのでしょうか。
当時の日本は、各地に「王」がいたのでしょうか。実はそこからしてアヤシいのです。
 
魏朝の連中が勝手に「国」と理解しただけで、実情は違ったかもしれません。
ましてや諸「王」など存在しなかった可能性も高いのです(!!)
この件についてはいずれ、幸田が現在執筆中の小説にて明らかにしたいと思います。
 

【小説を読もう】
“卑弥呼様が降臨してアレの証拠隠滅を頼まれちゃった~”
https://ncode.syosetu.com/n7994em/

 
まあ、そんなこんなで、様々な疑問を感じさせられる博物館でした。

後編へ続きます。

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