安保法制反対派も賛成派も、論点がズレてますよ!!
繁華街の大きな交差点。
「安保法制反対!」と書いたプラカードを掲げた連中が、
「子供達を戦争に行かすな~!!」
と声を張り上げていました(笑)
おバ◯ですなあ(^^;
安保法制が廃案になれば、子供達が戦争に行くことを阻止できるんですかねえ・・・・(^^;(^^;
もし安保法制が成立すれば、戦争が始まるのでしょうか。
安保法制が幸いにして廃案になりました。直後、お隣の◯国だとか△国が突然攻めてきました。
どうなりますか!? それでも子供達は戦争に行かなくて済む、と言えるのでしょうか。
歴史を紐解けば、こたえは一目瞭然ですよね。
完全に、学校教育による洗脳に冒されていると感じます。お花畑平和主義、ですな。
安保があろうとなかろうと、戦争をやらないといけない時というのはやって来るし、自国の命運がかかっている時は子供達だって戦場で命をかけざるを得ないのです。
これを、「覚悟」と言います。1つの国家が国際社会の中で生きていこうと思えば、それなりの「覚悟」が必要なのです。
人と一緒ですよね。人だって、社会の荒波の中でしっかり自立して生きていくためには、様々な覚悟が必要です。
ただし、人の場合は警察や司法など、自らの生命や財産を守ってくれる機関が存在します。これに対し国家の場合、最後まで自らの力で生命や財産を守らざるを得ません。つまり人以上に、安全保障への強い覚悟を要するのです。いざとなれば戦争をも辞さぬ覚悟がなければ、自国の平和は守れません。
ところが憲法を読む限り、そういう視点での覚悟が見当たらないのです。虚構の世界、お花畑の平和主義が展開されているに過ぎません。
そこに何ら疑問を持たないまま安保に反対したところで、何を主張しようと現実離れした空論でしかないのです。
では、安保法制に賛成する側が正しいのか。いえいえ、それもまたおかしい。おバ◯な点に関しては反対派と同レベル。完全に論点がズレていると感じます。
改めて指摘するのもバカバカしいのですが、安保法制議論の土台はまず、
「安保の是非」
のはずですよね。
賛成派も反対派も、そこに全く触れようとしない。これはどういうことでしょうか。幸田に言わせればそこが極めて不可解、不思議なのです。
ディスカッション
コメント一覧
読ませて頂き、ありがとうございます。
この列島に住む人々は、どんな道を取るべきか?
根本の話、をする人は多くないですね、そういえば。
どんな国も永久に遠泳が続くわけではないのに、まして、覇権主義エゴが
目立つ、アメリカ。
太平洋の藻屑の共倒れになる危機も、あるんですよね―なぜ、もっと
みんな 指摘しないのだろう?
それにしても。
かの国が砂上の楼閣になる可能性に思い至らないのは、全くの不勉強、
恥じます。
勉強になりました。
ありがとうございます。
古川さん、いつもコメントありがとうございます。
書いている側として、励みになります。
日常生活の中で、沢山の人がこの国の将来について、もっと活発に意見を述べ合えるようになるといいですね。
そういう土壌づくりに一役買うことができれば・・・・と願っています。
集団的自衛権だとかTPPだとか、個別具体的な議論をするより、まずそっちが先ですよねえ。
いえいえ、こちらこそ!!!
われわれは、何処へ向かうべきなのだろう?
平和を希求する国家、人を殺さない国家、を目指す、てのは
駄目でしょうか?
甘いかな?
ほんとうに。
そもそも。
われわれは、何を目指すべきなのか?
古川さん、おはようございます。
人を殺さないことを「平和」と定義する、ってのもアリだと思いますよ。
ただ現実には、相当厳しいでしょうけれど。
縄文時代の人骨を調べると、人を殺す、戦うということが極めて稀だったと判るそうです。弥生時代あたりから戦いが始まります。
その差はどこから生じるか。
おそらく食料生産性が向上し収穫量が上がり、富の蓄積や集落の大規模化にともなって社会という概念が発生。そこから貧富の差が生じる。
その辺りから、より大きな富を求めて「戦う」「人を殺す」という行為が始まるんでしょうね。
国家という巨大な社会があり、資本主義、自由主義経済を肯定している間は、残念ながら「人を殺さないという平和」は難しい、と想像します。
まず「人を小殺さない平和を実現するためには、どんな社会、どんな経済システムであるべきか」ってところから考えていきたいですね。
こんばんは。
資本主義、国家、というもので成り立っている世では、
やはり「人を殺さない平和」を実現するのは、難しいですか。。
犠牲をなるべく最小限に抑える国家、でありたいですね。だから、自衛以外で
大義なき戦争に参加する=他国人を殺してしまう可能性も生じる、のは
のは、賛成しかねます。
社会、経済システム、そこから考え直さないと 駄目なのですか・・・
古川さん、コメントありがとうございます。
>犠牲をなるべく最小限に抑える国家、でありたいですね。だから、自衛以外で大義なき戦争に参加する=他国人を殺してしまう可能性も生じる、のはのは、賛成しかねます。
同感です。
>社会、経済システム、そこから考え直さないと 駄目なのですか・・・
そう思います。
弥生時代になって戦争が大きく増してきたのは、金属器が
発達したからでは?と思います。
それとも。
大規模な戦争をする必要が生まれたから、金属の武器が発達したのでしょうか?
古川さん、コメントありがとうございます。
金属器はなにも武器のみ製造するとは限りません。
戦争をする必要が生まれたから、鉄で武器を作り始めたんでしょうね。
逆に言えば、縄文人は石器で武器を作ることも可能だったけれど、人を殺すための武器を製造する必要性がなかった、と。
ただ、縄文時代も大規模な環壕集落はあるんです。
ということは、戦いにおける防御の意味で設けたのではなく、ドロボー対策だったのかな、と想像します(笑)
※縄文人に戦闘行為が見られないという根拠は、発掘された人骨5,000体のうち殺戮の痕があるのはごくわずかだという点です。
そうですよね。
考えてみれば、石器だって木の棒だって、鈍器として使えるし、
削れば人を刺すこともできますね。
殺人を伴う大きな争いが幾たびも起きてきた、その時にちょうど青銅や鉄
を創る技術があった、と考えるべきかも??
古川さん、コメントありがとうございます。
>殺人を伴う大きな争いが幾たびも起きてきた、その時にちょうど青銅や鉄を創る技術があった、と考えるべきかも??
そういうことだと思います。
あ、青銅器は主に祭祀向きだそうですが。武器としては、強度が足りないんでしょうね。