新たな仮説提唱!! 「神武天皇即位紀元」
記紀によると、神武天皇即位は辛酉の年となっており、これを紀元前660年としています。
この紀元前660年に合わせ込んで歴代天皇の即位年を割り出す、というのが日本書紀の手法です。
その結果、歴代天皇の在位年数及び生没年が間延びしています。そしてそれが今日、アカデミズムの、
「古代の天皇は存在しなかった。皇室の歴史を古く見せるための、捏造だ(ワラ)」
というコンセンサスに繋がります。
おやおや!?
古代天皇否定の根拠として、それはそれで弱すぎませんか?
各地の古い神社や旧跡に、神武伝承がたくさん残っているんですよ。
それらと記紀の記述を照らし合わせると、あまり矛盾はないんですよ。年代の記述に目をつぶれば、概ね、
「史実に基いて書かれている」
と見做して良い筈です。存在自体は肯定してよい筈です。その方が自然です。
というわけで幸田は、この年代の矛盾に関し、1つ新たな仮説を提唱したいと思います。
神武東征と即位は紀元前50~70年頃
長浜浩明氏の一連の著書に詳述されていますが、神武東征及び即位は紀元前70~50年頃ではないか、と思われます。
これは各地に残る神武伝承と、当時の地形を検証し推測したものです。
つまり昔と今では、地球の気温が異なります。ですから海水面の高さが異なり、海岸線の形状が今日と全然違います。
神武伝承に見られる地形描写と一致する年代を割り出すと、前述のタイミングが自ずと判るわけです。
また当時は「春秋暦(月詠暦)」といって、春と秋に1年ずつ加算する(昔の2年は現在の1年に該当)という暦を使用していました。二倍年暦、とも呼称します。
古代天皇の即位年を二倍年暦と見做し、現在の暦で引き直すと、これまた神武天皇即位は紀元前50~70年頃という計算になります。
第73代武内宿禰こと竹内睦泰氏も、太古より自家に伝わる「正当竹内文書」を解析し、長浜説と同様の年代を推定されているようです。
幸田が思うに、考古学的裏付けもあります。
太古の日本は、実は戦乱が皆無でした。なぜならこれまで出土している縄文人骨5千体のうち、戦闘によって傷ついた痕跡がほぼゼロなのだそうです。また人を殺傷する目的で作られた石器・・・・即ち「武器」が出土していません。
ところが畿内において、紀元前1世紀頃から戦闘が始まったという痕跡が、ちらほらと見つかるのです。明らかに人を殺傷する目的で作られた鏃(やじり)が多数出土しています。
これは正に、神武東征を証拠付けるものではないでしょうか。
580年という古事記の記述
前述の通り、記紀の記述によれば神武即位は紀元前660年(辛酉の年)です。
しかし実際は、どうやら紀元前50~70年頃。おおよそ600年の開きがあります。
このギャップはどうして生じたのでしょうか。
ここからが幸田の新たな仮説です。
ヒントは古事記にあります。
「ホオリ(山幸彦)の御代は、高千穂宮にて580年続いた」
と書かれているのです。
なお、ホオリの息子がウガヤフキアエズ、つまり神武天皇の父親です。
つまり、ホオリ~ウガヤフキアエズ~神武天皇の間が、580年存在するというのです。
そこで紀元前50~70年から580年分遡ると、どうなるでしょうか。
あれれれ?
紀元前630~650年という計算になります。ギャップが埋まり、紀元前660年という年代が見えてきませんか!?
正史から抹消されたウガヤフキアエズ朝
幾つかの古史古伝には、神武天皇以降の大和朝廷より前に、「ウガヤフキアエズ朝」という政権が存在した、と書かれています。
70数代と書かれている文書(ウエツフミ/竹内文書)や、50数代と書かれている文書(宮下文書)もあります。つまり記述が一致しませんが、ただ少なくとも、
「ウガヤフキアエズ朝は数十代にわたる長期政権だった」
という点で共通しています。
記紀にはこの、ウガヤフキアエズ朝について何ら言及していません。
ただし複数の古史古伝には記述が存在することと、古事記に、
「ホオリ高千穂宮が580年」
と書かれていることから、
- 高千穂宮ウガヤフキアエズ朝が存在した。
- その期間は580年。
- しかし何らかの事情により、記紀はウガヤ朝を歴史から抹消した。
という推測が成り立つわけです。
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