一級資料「魏志倭人伝」

先般リリースしました「改めて魏志倭人伝を読み解く - 有象無象の珍説奇説を木っ端微塵に蹴散らす」ですが、お陰様で出足好調です。
当・拙ブログにて告知しているのみで、他に何の宣伝もしていませんが、それでも多くの方々にお読み頂いております。ありがとうございます。
現在出回っている卑弥呼邪馬台国諸説の決定版、と自負しています。
ですが執筆し終えて、それら諸説に詳しい方々にしか、拙著の価値をご理解頂けないのではないかと反省しています。
つまり、
「諸説にはこういった争点があり、それぞれどういった根拠を持ち出してどう主張しているのか」
といった、争点論点の整理が不十分だった……と感じるわけです。
そこで改めて、争点論点をベースとして拙著を解説する、つまり補助的な本の執筆を検討しています。
当記事は、その基礎原稿として先行掲載するものです。
「魏志倭人伝」とは
邪馬台国。――
「3世紀頃、女王卑弥呼を擁する多数の小国の『連合体』が存在した。その女王国を『邪馬台国』と言う」
と、私達は学校で教わりました。
いや、ウソなんですけどね(苦笑)
諸々、ウソです。この件、後々詳しく解説したいと思います。
何故、卑弥呼邪馬台国が我が国の古代史におけるミステリーなのかと言いますと、我が国の歴史書『古事記』や『日本書紀』――併せて『記紀』と言います――に、何故かその名が全く掲載されていないのです。
では出典は……と言えば、大陸の歴史書『三国志』(陳寿著)の『魏志』に詳述されています。
その『魏志』の30巻を『烏桓鮮卑東夷伝』といいまして、そのうちの一章が『倭人伝』――通称『魏志倭人伝』――なのです。その魏志倭人伝に、卑弥呼邪馬台国の事が詳述されているのです。
恣意的に解釈してはダメ
三国志の著者陳寿は、歴史書編纂者として極めて高い評価が為されています。
そのエラい陳寿は、一説によると、
「倭人伝を書きたいがために、三国志編纂を引き受けた」
との言い伝えが残るほど、並々ならぬ熱意でもって倭人伝を執筆しました。
ですから歴史書として、資料的価値が高いと認識すべきなんですね。
真摯に読み解くべきなんです。日本人研究者が、あちこち自説に合わないからと言って、
「これは陳寿の勘違いだろう」
だとか、
「単なる誤記だろう」
……なんて、恣意的に解釈してはダメなんです。
アホ臭い説を排除せよ
例えばアカデミズムの掲げる二枚看板たる、邪馬台国畿内説。――
実は方角も距離も、魏志倭人伝の記述と全く一致しません。
ですがそれを、
「陳寿が何か勘違いしているんだろう。全て、南を東と勘違いした上で、卑弥呼邪馬台国への経路を記述したんだろう」
……などと、恣意的に解釈した上で成り立っています。
確かに距離は、測定が難しいためアバウトでしょう。特に海上移動における距離測定は難しく、アバウトです。実際、魏志倭人伝の距離記載は、全て概数だと解釈すべきです。
ですが方角はどうでしょうか。
方角なんてものは、太陽が出ていさえいれば誰にでも明らかなんですよ。地面に棒杭の一本も立ててみれば、影の角度や長さであっさり判ることです。
それを、魏朝の人々が尽く勘違いし、誤って報告書に記載したでしょうか。陳寿はその報告書につられ、勘違いしたまま魏志倭人伝を編纂したでしょうか。
あり得ない話ですよね。
しかし多くの学者先生方が、未だそんなアホ臭い説を唱えているのです。呆れた話です。
世間に多くの邪馬台国諸説が溢れています。学者のみならず、アマチュアの研究家もを様々な自説を唱えています。
ですがその多くは、魏志倭人伝をきちんと読み解いていないのです。謎を解くアタマが無いので、自説の都合で記述を勝手に取捨選択しつつ、
「邪馬台国の所在地はココだ!!」
と主張しているに過ぎません。その尽くが、実に低レベルなのです。
記紀史観との兼ね合いも大事
加えて、記紀との兼ね合いを丸っきり無視しています。
これも大問題です。記紀には卑弥呼邪馬台国の時代について書かれているのですが、学者先生方は記紀史観を丸っきり捏造しているので、それが魏志倭人伝の記述と繋がりません。
というわけで本稿の筆者幸田は、陳寿著魏志倭人伝を、
――信頼に足る一級資料
と見做した上で、丁寧に読み解きます。実際に自説を立てた上で改めて感じるのは、魏志倭人伝の凄さです。
かつ、
――記紀史観との兼ね合い
を重視しています。
以後、そういったスタンスで、魏志倭人伝を解説していきたいと思います。卑弥呼邪馬台国の謎を解き明かしたいと思います。
次回へ続きます。
ディスカッション
コメント一覧
羅針盤が大発明として評価されるほどには難しいことなんですよ方角を特定するのは。
そもそも末盧国(唐津市)→伊都国(糸島市)→奴国(福岡市)が魏志倭人伝で東南と表記されているのに、実際には北東方向であるという時点で方角は間違っています。
匿名さん、コメントありがとうございます。
方角なんて、日中に棒杭1本立てれば、影の向きや長さとの兼ね合いですぐに判りますよね。
方角特定が難しいのは海上での話です。特に夜間の。
魏志倭人伝方角記述に関しては、全て陸上での話です。
対馬、壱岐とて出発点から島影を目視出来ますから、予め陸上で方角を知ることが出来ます。航海中に方角特定を余儀なくされたわけではありません。
また、末廬国→伊都国→奴国の方角が北東ではないか……というご指摘ですが、これこそまさに、既存の説(畿内説にしろ北部九州説にしろ)が揃いも揃って誤りである証拠です。
方角記述が誤っているのではなく、既存説が我田引水のデタラメ揃いなのです。
だからこそ邪馬台国問題が、いつまで経っても解決しないわけです。
方角特定は簡単なんだ、それを誤記として軽視・黙殺するのはおかしい、魏志倭人伝の方角記述に信頼をおいた上で全てを見直すべし……というのがまさに幸田説の、ポイントの1つです。
そのようにご理解頂ければと思います。
移動しながらだと難しいのではないでしょうか?
伊都国や奴国の比定地を変えるべきということですか?それも難しいでしょうし、そこまで魏志倭人伝の記述を鵜呑みにする必要も感じられません…
匿名さん、コメントありがとうございます。
>>移動しながらだと難しいのではないでしょうか?
移動しながらではなくとも、出発時だとか途中休憩時にちょちょっと確認すれば済むでしょうね。
>>伊都国や奴国の比定地を変えるべきということですか?
そういうことです。
学者先生方の主張は、まあ噴飯モノです。
伊都国については魏志倭人伝に詳述されていますが、糸島は記述に全然合致しません。
幸田は福岡市在住ですので、糸島や福岡市内の遺跡も見て回っています。直接現地に足を運んでの感触も、伊都国や奴国に合致しませんね。
>>そこまで魏志倭人伝の記述を鵜呑みにする必要も感じられません…
一級の歴史資料、と評価されているのです。
幸田も、資料価値は極めて高いと思いますし、資料通り読めばちゃんと卑弥呼邪馬台国の謎も解けます。
是非、拙著をお読み下さい。学者先生方が以下にアレか、よくわかります。既存の研究家達が、いかにいい加減に或いは恣意的に魏志倭人伝を読んでいるか、よくわかると思います。