伊都国歴史博物館に行ってきました - 後編
弥生時代と古墳時代の境界は!?
そもそも今日の定説として、弥生時代とはいつ迄を指すのでしょうか。いつからが古墳時代なのでしょうか。
仮に邪馬台国の場所が判明し卑弥呼の墓が見つかったとして、それは墳丘墓(弥生時代)なのでしょうか、古墳なのでしょうか?
幸田はそこが気になっていたので、スタッフの方に質問をしてみました。
非常に興味深い回答が返って来ました。
- 卑弥呼邪馬台国の時代は、まさに弥生時代と古墳時代の境界にあたる。
- 邪馬台国九州説と採ると、3世紀末までを弥生時代と見做しているため、卑弥呼の墓は墳丘墓であろうと思われる。
- 邪馬台国畿内説を採ると、卑弥呼の墓は箸墓古墳(墳丘墓ではない) つまりそこ(卑弥呼の死は3世紀半ば)を起点に古墳時代が始まると見做している。
だそうです。
なるほど。初めて知りました。
皆さんはいかがでしょうか。ご存知でしたか?
充分信頼に足る根拠がある……のか!?
というわけで、今回いろいろと勉強になりました。
特に、私達一般人と学者先生方の、認識の違いを痛感しました。
私達一般人は、学者先生方の著作、メディアでの発言、それから博物館等に掲示されている記述に関し、
「ちゃんとした調査結果であったり、或いは多くの学者のコンセンサスを得ていたり……と、充分信頼に足る根拠があるのだろう」
と勝手に思い込んでいるだけのようです。
もっと踏み込んだ物言いをするならば、情報不足のため、そう思い込まされているだけなのです。
一方、学者先生方からすれば、
「根拠の信頼性に関らず、学問的信念や学問の自由、表現の自由に基づき、ただ自らの学説を思い思いに主張している」
に過ぎないようです。
そこに、
「受け手である私達一般人が、それをどう認識するか」
といった意識は無さそうです(^^;
この、両者の認識の違いを識ることが出来ただけでも、大きな収穫でした。
ディスカッション
コメント一覧
今年のゴールデンウィーク後半は熱を出して寝込んでいました。そこで急に邪馬台国のことが何故か頭に浮かんで(30年ぶりくらい?)、ベッドでタブレット端末片手に少し勉強しました。その時こちらのブログも拝見しました。
私も邪馬台国は宮崎だろうと思います。伊都国は吉野ヶ里遺跡、奴国は久留米(あるいは八女)付近、不弥国は鳥栖付近だと思います。根拠何てものではないのですが、面白いことに対馬、壱岐、唐津は南東方向への移動となるはずなのに、南への移動となっています。最初の方から方角が何か変なのですね。それでも、そういう地図の見方なのかと思いまして、私は対馬、壱岐、唐津を結ぶ直線が南北方向と一致するように地図を時計回りに少しずらしてみました。すると、唐津からちょうど南東40キロのところに吉野ヶ里遺跡があります。さらにその南東方向には久留米があり、吉野ヶ里遺跡から南東8キロ付近には小さい遺跡があるようです。奴国の端でしょうか。ただ、奴国は人口が多いようなので、八女市の方に広がっていたのかもしれません。また、東方向には鳥栖があり、同じように8キロ付近には遺跡があります。そして、奴国の真南には熊本平野が広がります。邪馬台国への移動も南水行10日陸行1月だけで意味が通じます。ホントに南へ一直線ですから。インターネットで調べたら、八代辺りで上陸した場合、宮崎市まで歩いて150キロくらいになるみたいですね。山の中を歩けばやはり1月はかかりますよね。
とまぁ、ゴールデンウィークに寝込んで成した成果を発表させていただきました。思いつきなので、何か勘違いとかしてたらごめんなさい。失礼しました。
かちやんさん、コメントありがとうございますm(_ _)m
幸田もホント、その通りだと思います。
「陸行1月」というのは、私達はどうしても江戸時代人みたいに1日30km以上歩くことを想像してしまいますけど、孫子の兵法書によると(古代の大陸人は)軍隊でも10km強しか移動しなかったそうで……。
魏朝の高官御一行様なら、馬車も牛車も荷駄車もなく、大荷物を抱えて山道を移動するわけですから、そりゃわずか150kmでもひと月かかるでしょうね。
あと方角に関しては、多少アバウトに考えておくべきかもしれませんね。
現在のように方位磁石なんて、ありませんので。
対馬-壱岐-唐津等は特に海上移動なので、
「南に進路をとっているんだけど、対馬海流に乗って流される分」
も考慮し、実質東南だったという理解で良いのではないかと思います。
ともあれ、謎解きも良いですけどお体を大切にされて下さい。